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1944年3月4日、藤原新也は九州最北端の港町、九州鉄道路線の終着駅でもある門司港に生まれた。
彼が少年期であった終戦からしばらくの間、門司港は引揚者や外来の人々が足繁く行き交う、活気あふれる第二の黄金期を迎えていた(郷里を撮った写
真集「少年の港」ー1992年ーに収録される短編小説「支那のヴァイオリン」にそのころの空気が色濃く伺える)そんな門司港のメインストリートに位
置する「藤乃屋旅館」が彼の生家だった。
「僕がアジアに向かって開かれた港町の旅館に生まれ育ったことは、それ以降の自分の生き方に少なからぬ
影響を及ぼしたのかも知れない。後年、自分がアジア放浪の旅に長い年月を費やしたのも、思えば子供のころに嗅いだアジアの香りの追体験だったということも考えられる。
旅館というのは旅人が泊まるから旅の館と言うのだけれど、僕は自分の家に居ながらにして日々旅人の香りを嗅いだ。彼らが玄関に入ってくると必ずどこか異なった土地の香りが漂って来るんだ。特にアジアの人々が家に入って来ると、実にエキゾチックな匂いがしたものだ。そのアジアは子供の想像の中でひとつの理想郷でもあったように思う。
たとえば港町のあちこちで催されるバナナのたたき売りは、子供の僕にとってアジアの香りをいっぱいにふりまく、たった一坪の小さな劇場だった。僕は台湾バナナの香りを嗅ぎながら、飽きることなくたたき売りの口上に聞き入ったものだ。“金波銀波の波越えて、海の向こうの島からバナさんがこの港町にやって来る”というくだりを聞きながら、僕は南の太陽の燦々と降りそそぐ下で、白い歯を見せながらバナナの木に手をのばす姉さんかぶりの女性たちの、美しい笑顔を想像したものだ」。
しかし華々しい栄華を誇った港町も、戦後復興計画による交通
改革によって人の流れが変わり、門司港は港町としての役割を終え凋落の一途をたどることとなる。そんな時代の変化の中で藤原新也の生家が破産に追い込まれたのは彼が16歳、高校2年の時のことである。そして一家はすべてを失い、別
府山の手の湯治場鉄輪に流れ着く(自伝小説「鉄輪」ー1999年)。
「なにひとつ不自由のなかった旅館のぼんぼんが、一転して奈落の底に落ちた。つらい日々だった。しかし逆に考えれば運命が与えてくれた贈り物だったとも思う。僕はそこで遅まきながらはじめて自我というものに目覚めたのだからね。自分が子供から大人になる分岐点が、くっきりとそこに立ち現れたんだ。」
死すら考えた少年がそれを乗り越えた時、大人の世界に一歩踏み込んだと言える。そして異郷の地で最後の高校生活を送った彼は、やがて東京に出ることとなる。
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