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 自伝小説『鉄輪』に描かれるように、そもそも藤原新也が上京したのはラテンギターを習得するためだった。彼は東京に出るとすぐに郷里で手にしていたギターの教則本の著者、武蔵小山にあった溝渕浩五郎の門を叩くのだが、3ヶ月で退所している。自由奔放なラテンギターをやるための、厳格なクラシックギターの堅苦しいレッスンが肌に合わなかったのだ。彼はギターを辞め、それ以降30種に及ぶ仕事を転々としながら、ただ東京を漂流する日々を送った。そしてある日、高校時代に絵をやっていたことを思い出し、仕事のかたわら絵の研究所に通 い、東京芸大の油画科に入学する。しかし彼が学校にまじめに通ったのは最初の一週間で、後は特別 貸与奨学金の8000円を受け取るときのみ学校に赴いた。

 「大学に入るまではよかったんだが、いざ入ってみると急に大学に興味を持てなくなった。そこには自分の求めるものはないんじゃないかと感じた。それに学生たちは大学に入ったそのことだけで浮かれ気分でね。まぁちったぁ難しい大学かも知れないが、そんなのなんぼのもんじゃ、たかが知れてるじゃないかって思いが自分の中にはいつもあった。それに大学の授業から生まれた芸術なんてつまらないような気がしたんだ。当時大学紛争が巻き起こっていたということも僕が大学に腰が落ち着かなかったもう一つの原因かも知れない。

 僕は徒党を組むのが苦手で学生運動には参加しなかったが、既成の権威機構の中に自分がいるという鬱陶しさがどこかにあったように思う。そしてこれはもっと大事なことなんだけど、それ以上に自分の中に悶々として整理の出来ない説明不可能な苛立ちが渦巻いていた。

 それは多分自分が生きているという実感が持てないということだった。いや遠い将来自分の存在や身体が何かによって消されて行くのじゃないかという漠然とした予感と怖れを抱いている自分がそこにいたんだ。大学にいた時たった一回だけ哲学の授業にレポートを提出したことがある。それは今組みかえられつつある現実は人間を自己消滅に向かわせるのではないか、という教師への質問状の形式をとってた。

 教師からは実にのどかなぼんやりとした答えしか返ってこなかった。こっちは切実な問題だったのに、教師はただ哲学しちゃっていたのね。今思うに、なにもかもがバーチャルに向かい、人間が透明化する今日の時代を僕はすでにそのとき感じ取っていたのかも知れない。それから大学を辞めた。インドに向かったんだ。なぜって。多分そこにはいま自分たちが、そして時代が失いつつあるリアルが在るかも知れない、と体でそう感じていたからだ」

 

 

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