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 「1969年に日本を旅立った藤原新也が、アジアの旅に一つの区切りをつけたのは、旅の総決算である『全東洋街道』を上梓した1981年のことである。その間日本では学生運動は挫折し、しらけという名の季節である70年代が経過し、藤原が日本に帰った80年代は高度成長の真っただ中で多くの社会システムが人身管理化の一途を辿り、人々のストレスは増大していた。そしてそれらのストレスは多くの事件の形をとって社会に噴出することとなる。その一連の事件の中でも藤原が注目したのは、受験生一柳展也による「金属バット両親撲殺事件」だった。

 「僕はその事件にニッポンの崩壊の予兆を感じた。そして現場に大型カメラを持ち込んだ。それが日本に帰ってからの事実上の最初のショットだった。それよりも僕が着目したことは、この事件が新興住宅地で起きたということだったんだ。というのは最初のインドへの旅ののちに上梓した『インド放浪』(1972年)のあとがきの結びに、日本に出現しつつある忌避すべき住空間としての新興住宅地帯に触れた記述があるんだね。以降、人間崩壊のラジカルな事件がことごとく新興住宅地帯を舞台としていることは周知の事実だ。ある人が30年も前に藤原が新興住宅地帯に触れているということに驚きのコメントをしていたが、僕はインドに旅立つ前にその新興住宅地に間借りをしていてその薄気味悪さに気づいていたということさ。僕は新興住宅地の建て売り住宅の一室からインドに旅立ったんだ。そのことを振り返るに、僕のインド行は、以降急速に拡大する非人間的空間、ニッポン総新興住宅地帯化への叛意であったのかも知れない」

 日本に帰った藤原はやがて、日本論『東京漂流』を上梓。衝撃を与える。
そして彼の嗅覚はアメリカに向かうこととなる。

 「この日本を、そしてアジアをなにか奇妙なエーテルが包み込みつつある。その臭いはアメリカのカルフォルニアの方から流れてきてる。そう感じたんだ。僕はモーターホームで7ヶ間アメリカを旅した。そこで発見したんだ。日本を席巻しつつある新興住宅地帯という名の無機的空間がアメリカを起源としているということを。僕はそこでまるでディズニーランドそのままのような、花咲き乱れるあの人類の幸福を約束する「フリージア物語」という名の新興住宅地を大型カメラにおさめた。ちょうど金属バットの家を撮った時のように」

 それは時に、密やかに転向と呼ばれた。1969年のインドへの旅立ち以降『インド放浪』から『東京漂流』を経て『アメリカ』に至るまで、時代を撮り、時代を語りつづけてきた藤原は90年代に入り、不意に表現のベクトルを変えはじめる。インドにおいて人間文明の古層に触れ、アメリカにおいて文明の極北を旅した彼は、何かを見極めたかのように時代の先端から身を引きはじめる。彼はその直後、故郷門司港の少年時代の記憶を辿った瑞々しい写 真集「少年の港」を生み落とす。

 「僕が23年ぶりに突然郷里に帰り、少年期の思いを綴った時、その意味を誰もが汲みかねたようだ。だが僕には69年の旅立ちから89年のアメリカ行にいたる20年間の旅で、一連の文明を辿る旅は終わったのだという個人的な強い思いがあった。そしてその過程でつぶさに見てしまったんだ。人類はこのまま行けばあらゆるシステム閉塞に向かうだろうと。そのアポリア(絶対閉塞)に向かおうとするものが仮にこの日本だったとして、その中で表現者として自分には何が出来るのだろうか。それは僕に限らず90年代から2000年ミレニアムに生きる人間にすべて問いかけられている問題なんだね。

 僕はその時ひとつの森の話を書いている(ノア。「インド動物記」に収録)。それはすでに枯れ果 てることが自明になっている森に住む聖者は一体何が出来るかという物語だ。ある聖者は滅びの森にホラ貝で音楽を与えようとした。その音楽によって森は蘇生するわけではない。しかし森は音楽を得ることによって、少なくともその生と死に何らかの意味を与えられることはできるのだね。科学、政治、経済、教育、はおろか宗教すら破綻を来している今、人間に残された最後の武器はそういった美学だけじゃないのか。それが長い旅を経て、自分が持ちうるささやかな一つの希望だった。アメリカ以降、僕が時代論から離れて、感覚的な表現により力を込めはじめたのはそういった一連の時代と自分の人生の流れの中で生まれた出来事なんだ。」

 藤原新也の最新作「俗界富士」「千年少女」はあまりにも美しい。これまでこのような富士は見たことがない、と評された藤原富士はその裾野に広がる卑俗世界にまでそれを肯定するかのように光を当てる。「少年期の故郷を撮ることは僕という少年を見つめていたあの少女のまなざしを撮ることなんだ」という思いのもとに撮られた少女写 真はせつない。そしてあたかも言葉の桎梏から逃れ、まるで眼の音楽の森にさまよい出たかのような「バリの雫」はなぜか故郷門司港で彼が想像したバナナのたわわに実る海の向こうの楽土を思わせるものがある。藤原新也は旅の大団円を描き、回帰したのだろうか。そしてその大回帰の先には、なにがあるのだろうか。

(文責・相川大介)

 

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