Shinya talk

     

 

2021/12/01(Wed)

オミクロン株が投げかけたもの。


たまたま先日は8月をピークとするコロナ感染者数が激減した不可解なこの状況に言及したわけだが、地球の裏側でのオミクロン株と言う新たな変異株の出現を見て、国家単位の感染者数にこだわることは極めてローカルな、そして自己本位の視座であることを思い知らされた感がある。


これは半年程前のPodcast でも述べたことであるが、地球各地に遍在するコロナウイルスはそれを一つの総体として捉えるべきであろうと思う。


つまり個体としては生命として規定されないウイルスは、地球規模で無数のニューロン(神経系)によって網の目状に連鎖しており、その総体こそが生命体とする考え方に立つべきであろうと考える。


そのニューロンとは目に見えぬ意思伝達のネットワークである。

例えば宮崎県の幸島の子猿が海水で芋を洗うとおいしいことを発見し、それを真似して他の猿が芋を洗いはじめ、ちょうどそれが100匹目に達した時に地球上で突然意思伝達が起こり、遠く離れた場所の猿たちもいっせいに芋を洗うようになったというアメリカの思想家ケン・キース・ジュニアが書いた『百番目のサル』の、あくまでこれは架空の物語であるわけだが、それはあながち架空とは言えず、様々な生命体の系統の中で案外日常的に起こっていることかもしれない。


ウイルスのエラーカタストロフによる自壊作用を期待し始めた矢先に、その巨大な生命体としてのウイルスの乳房部に突然発生した敵戦士としての新たな変異株は、ローカルな視点でウイルスを語ることの無力を思い知らされるとともに、私たちは今ヒューマニズムの上に立ってウイルスと対峙すべきことを教えられているように思うのである。