Shinya talk

     

 

2015/07/06(Mon)

女子W杯決勝に思う。(Cat Walkより転載)

W杯になると「今日はW杯の決勝じゃニャー」とその辺の新大久保の知り合いの野良猫に尋ねても知っているくらい日本国中が大騒ぎをする。



だが、W杯が終わると熱狂は急降下し、いったいなでしこ、今どこで何をしているの状態となる。



実際に先のW杯直後には女子サッカー競技場には万単位の観客がいたらしいが急激に熱は醒め、その後は平均2000人くらいだったらしい。



そして現在女子サッカー観客人口は4・5万人。

これではメシは食えないから働きながら練習に励む選手も多いと聞く。



一方アメリカの女子サッカー観客人口は200万人。


スターになるとスポンサーがつき億単位の収入があると聞く。



要するに今日は恵まれたプロサッカーチームと極貧の半アマチュアチームが闘ったわけだ。

勝つ方が奇跡だ。

そういう意味ではよくやったと思う。



そして今回もし優勝でもすればまた前回同様の日本国中お祭りが再現されたのだろ。



中でも官邸(安倍)はここぞとばかり再びチームを官邸に呼び、自己宣伝の道具に使う。

ここのところ受難続きの官邸も今回も手ぐすね引いて待っていたに違いない。

だからと言って女子サッカーに予算をつけるわけでもない。

マスメディアもまた視聴率の稼げる時はあおり立て、熱が醒めると女子サッカーいったいどこで何をやっているの状態となる。



みな使い捨てなのである。



おそらく今回、なでしこの帰国時には(自分が気持ちよくなろうと)良くやったコールが巻き起こり、その後一気に熱は醒め、また競技場は閑古鳥状態になるのだろう。



キャプテンの宮間が「ブームでなく文化になるように頑張りたい」と言ったのを名言というがそうでなはい。

こういった日本の勝手な使い捨て状況に対するやんわりとした淑女的皮肉と聞こえた。



彼女たちは十分に頑張っている。

頑張っていないのは無責任な馬鹿騒ぎをして自分だけが気持ちよくなって、そのまま忘れ去る平成国民である。

となると女子サッカーなど一度も見たこともない私にもその責任の一端はあることになる。



今度ふたたび閑古鳥の鳴くはずの女子サッカー競技場でOFF会をひらきたいと思う。



     

 

2015/06/28(Sun)

池上問題。

リベラルすら邪魔なこの時代、かつて管義偉を怒らせたクローズアップ現代の国谷裕子番組のやらせ疑惑に続き、かつて安倍にイヤホンを外させた池上彰番組の確信犯的やらせ浮上は「池上おろし操作の可能性」という視点からも見ておいた方がよい。藤原新也

     

 

2015/06/26(Fri)

永遠のゼロ。(CatWalkより転載)

安倍首相に近い若手国会議員らが党本部で開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」での百田尚樹の発言が問題になっている。

同胞内輪の懇談会ということでいつもの百田馬鹿節が全開となったようだ。

曰く

「安保法制に反対するマスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」

「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」

(議員×百田 懇談)

「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」

かつて役場や小学校のほか、五つの集落が存在していた普天間は沖縄戦で住民は土地を強制接収され、基地の周辺に住まざるを得なくなった経緯があるが、百田曰く、

「普天間はもともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした。基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな。ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」

ここまで来るとこの男、元々学生テレビタレントの大阪出身だから時代の要請に従い「極右コメディアン」として吉本興業に席を置いた方がお似合いだ。

あるいはここまで来ると今のまま世間に泳がしていた方が(極右の馬鹿ぶりが際立つので)よいのかも知れない。

いずれにしても百田というのは近来希に見る「永遠のゼロ」である。
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2015/06/03(Wed)

このニッポンがインゲン豆程度の一物に支配される倒錯と滑稽に思いを馳せる。(CatWalkより転載)

昨日の21時に東中野のポレポレで上映されている「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅとぅみ)」を見る。

この映画は当初18時からの1日1回のみ上映だったらしいが、大盛況で21時にも再上映することになったとのことである。

だがさすがに夜12時前に終わるこの時間帯は客が少なく、昨日の21時の上映では観客は10名くらいだった。

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館でどうやらダニをもらって帰って来たらしく、朝体の一部に妙なかゆみを感じるが、映画そのものは現地の人間模様がよく描かれている佳作ではある。

戦場ぬ止み、というのは沖縄は太平洋戦争時末期の主戦場となり、多くの犠牲者を生み、人と人が闘ってるという意味においてその戦場が今辺野古へと移っている。

いい加減に戦争は止め、との意味が込められている。

ただ、この映画、現地の人間模様はよく描かれていて現状把握には大変役立ったが、映画を見終えて夜の街を歩きながら感じるのは主役の見えない苛立ちと虚しさである。



その主役とはまさにアメリカのこと。

この映画でアメリカ人が写ったのは基地正門前で抗議側のリーダーの一人で座り込んでいるとき現れて上官と電話連絡を取り合う数人の米兵のみである。

その他の尺は抗議の人々と警官や海保(海猿)らとの日本人同士の抗争が大半の尺を占める。


つまり闘う相手は他にいるはずだが、まさに同士討ちをしているということだ。(今回の沖縄行で二人の助手と普天間基地周辺を歩いているとき船長がふたりの若造警官に尋問を受けた際「お前、嘗めるなよこの野郎!」と活を入れたシーンもこれも同士討ちと言えば同士討ちだ)。



多くの日本人はこのことをあまり肌で感じていないようだが、安保同盟とはその名からいかにも平等条約のように見えるが、日本の陸海空自衛隊は事実上アメリカの軍政下に置かれていると言っても過言ではない。



このことは昨年岩国基地の海上自衛隊を訪れ、救難飛行艇US-2の訓練に立ち会った時にあらためてしっかりと認識したことである。



岩国基地の海上自衛隊は独立して存在せず、広大な米軍岩国基地の奥まった一角に間借りしているのである。

つまりアメリカ基地に併呑(へいどん)されているということ。

海上自衛隊に行くには検問詰め所で身分証明書を提出し、許可証をもらうのだが、この検問所は米軍管轄である。

日本の自衛隊に行くにはアメリカ経由になるということだ。

そして検問を通って海上自衛隊に入るのに長距離を走ることになるがこの間の米軍施設の撮影はもちろん禁止である。

この現実こそが軍事面におけるアメリカと日本の地位関係を如実に表していると言える。



18年間基地問題を引きずり、今回埋め立て問題で揺れている辺野古においてもこの構図は同様である。

航空安全の見地から危険な普天間基地の代替地として辺野古移転というのは表向きの理由であり、アメリカがここに目をつけたのは他に理由がある。

辺野古はオスプレイその他の航空機の発着場としての滑走路がクローズアップされているが、実はそれよりも軍港としての価値が大きい。

つまり沖縄全土の中でこの辺野古の海のみの沿岸部が切り立ったリアス式海岸という天然の良港(軍港)となりうる地勢を擁しているのである。

ご承知のように沖縄の海はほとんどの地域では陸から海沖にむかってリーフが張り出しており、吃水深度の深い大きな船は入ることが出来ない。

だが辺野古の海は陸に隣接する海域でドン深(現地用語でナービ「鍋」)になっており、大型原子力航空母艦も着岸可能な地勢を形成しているのである。

この船の吃水というは航行海域が限定される重要な規制となる。

私の船は17フィートで吃水30センチ。42フィートで吃水120センチだがミニッツ級の大型航空母艦では吃水は12〜13メートルにもなる。

吃水12〜13メートルの大型船舶が安全に入港するには荒天時の船のローリング(左右の揺れ)ピッチング(前後の傾き)ヒーヴィング(上下動)を計算に入れるなら倍の水深25〜30メートル(12階建てビルに相当)は必要だろう。

しかも大型航空母艦の入港にはその水深が必要な上に船の長さの倍、約五百〜六百メートルの着岸域が必要となる。

辺野古のナービと呼ばれる海はこの用件を完全に満たしている非常に希少な海域なのである。




前回の浮雲旅、辺野古篇では私はのどかな楽園論をぶったが、本当のことを言えば、花咲き乱れる丘から辺野古の海を眺めながらスパイよろしく海の地勢と水深を視認していたのである(同行した乗組員諸氏は「きれいね−」とお花畑思考のようだったが)。

そして対岸の丘からは以下のようにその海の色によっておおかたの水深は想像できるわけだ。

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遠くに白波の立つのはリーフと遠海の結界(ピー)であり、その一帯すら浚渫(しゅんせつ)すればその内側は水深が深くなっているという私自身もこれまでみたこともない特殊なリーフの地勢である。



当初埋め立て案は航空機離発着のためのI字型だったがその後L字型となったのは、大型軍用機も発着可能な滑走路、武器・弾薬などの兵たん施設、大型艦船が帰港できる軍港の三つの機能を持つ新基地構想であり普天間の代替基地などではとうていないのである。

つまり大国の主戦場が中東からアジアに移りつつあると言われてる今、中国とアジア経済軍事の覇権争いを始めているアメリカがこの辺野古を手放すことはありえないだろうということである。

おそらくの翁長沖縄知事がアメリカ詣でをしてもアメリカが基地政策を転換することは考えにくい(アメリカは日本政府のように稚拙ではないから聞く耳を持たないという強硬姿勢は見せず、表向きは柔軟な対話姿勢を見せるだろうが)。



この辺野古政策を強引に推し進める日本国25代首相安倍晋三を私はかねがね”お座敷犬”であるとともに”腹話術人形”だと観測しているのだが、TPPや秘密保護法の強引な成立からイスラム国事件に対する対応、そして集団的自衛権改変による自衛隊海外派兵推進に到るまで、そのお座敷犬であり腹話術人形としての第25代首相の面目は如実に保たれていると言って良いだろう。

いわゆる歴代首相を血脈に持つ”名家”に生まれ育った彼は臆病でありながらも根拠のない全能感に満ちたお座敷犬として育った。

チワワのようなお座敷犬が自からの力を過信して屋外で自分より何十倍も大きな犬に吠えつくことがよくある。

とうぜん手痛いしっぺ返しを食い、尻尾をまるめてお座敷に逃げ込むわけだが、私はアメリカに対する安倍の豹変を見ると、このお座敷犬の顛末を想像せざるを得ないのである。

25代日本国首相として二度目の首相に返り咲いた彼はご承知のように当初はアメリカに向かってことごとく楯突いて(吠えて)いた。

ところが何時の時点からか、とつぜん豹変し、ポチと揶揄された小泉元首相以上のポチとなりアメリカに隷属しはじめる。

その間に何があったかは不明である。

だがかつての中川一郎、昭一親子が自殺(他殺説がある)に追い込まれたように、そして第七艦隊は不必要と明言した小沢一郎が政界の表舞台から抹殺されたように相当の脅しに遭っているであろうことは想像に難くない。





したがって安倍首相の他者を無視した強引な為政によって次々と決まっていくTPP参加に続く秘密保護法の強引な成立からイスラム国事件に対する対応、そして集団的自衛権改変による自衛隊海外派兵推進に到るまで、複雑な論議がなされているが、何も複雑なことはありはしないのだ。

アメリカはアフガニスタン、イラク、で天文学的出費を余儀なくされ、いずれも失敗し、疲弊し、世界経済の中心が東アジアにシフトする近年の情勢の中において軍事の肩代わりを日本に託さざるを得なくなったということだ。(この顛末は13年の暮れにトークに掲載した元毎日新聞記者西山太吉のインタビューに明らか)

http://www.youtube.com/watch?v=JqIUh9V7hA4



そういう意味ではお座敷犬の安倍はアメリカにとって格好の”逸材”だと言える。

今、彼は世界に数あるアメリカの腹話術人形の中においてもきわめて”よく出来た”人形なのである。

人形には身体がなく、自分自身の考えでしゃべっているわけでもないからそこに痛くも痒くもない根拠なき過剰な自信も生まれ、一見彼が強い意思をもって政策を推し進めているように見えるだけの話だ。

その腹話術人形としての大団円の場がオスプレイ17機を倍の価格で購入したことの引き替えのご褒美としての米議会での安倍の演説である。

あの時、人形が人形師の前で得意満面に演説するという非常に変わった倒錯場面が世界に発信されたのだ(もっとも報道されたのは日本のみで欧州は当然のことながらアメリカのマスコミでさえ無視されたが)。

あのアメリカ議会での演説を見て何か背筋の凍るような寒さと滑稽さを感じたという人がいれば、それはそこに倒錯現場を見たということなのである。

安倍はよく辺野古問題において粛々という言葉を使う。

鞭声粛々夜河を渡る。

粛々という言葉には戦国武将の動じなさが描かれているが、臆病なチワワが動じず果断に吠えるのはそこに強い主人が手綱を握っているからである。

     

 

2015/04/13(Mon)

世界を変えるためではなく(Cat Walkより)。

311につづく福島原発事故のおり飯館村を訪れた私はそこで原発被害を被った村民の部外者(私たち)に対する激しい憎悪の眼差しに接し、戦後はじめてここでは日本同民俗同士の分裂が起こっていると書いた。



その北で起こった民俗の分裂が今沖縄という南においても起こっている。



福島における民俗の分裂は国益優先政策によってそれが棄民政策となった民主党政権の虚偽為政に端を発するわけだが、自民党政権下の今、沖縄でも同様のことが起こっている。



いずれにしても国家というものは国民を守るためにあるのではなく、国家は国家そのものを守るためにあるという、いみじくも太平洋戦争で経験したことの雛形が北と南で展開されているということに過ぎない。



つまり左翼政権であとうと右翼政権であろうと、国家というものの性分に変化をきたすということはないということ。



そういう権力あるいは国家というものの性分、趨勢の中で生き続けなければならないのは日本に限らず、あらゆる国家の歴史に底通することであり、このような人間がなす愚かなアポリア(絶対閉塞)の中においてガンジーの言葉は私たちが生きて行くひとつの指針を示していると言えるだろう。









あなたがすることのほとんどは無意味であるがそれでもしなくてはならない。

そうしたことをするのは世界を変えるためではなく世界によって自分が変えられないようにするためである。









つまり私たちは国家という巨大機構に決して勝つことは出来ない。

それはたとえ(国家というものに隷属している)安倍首相においても同じことだ。

だが「私」が国家によってその意識を変えられない限り、私たちは国家という鵺(ぬえ)に永遠に勝ちつづけるだろう。


     

 

2015/04/04(Sat)

報道ステーションの一件に思うこと。(Cat Walkより)

テレビ業界に異分子粛清の嵐が吹き荒れているようである。



その異分子とは現政権をつつがなく運営する上において都合の悪い知識人やコメンテーターのこと。



というより4月の各テレビ局の番組再編を見てみると異分子のみならず右寄りの人も含め、何か一家言を持ってものを言う、つまり右であれ左であれ波風を立てる恐れのあるタレントやコメンテーターも一律に消され、軒並み人畜無害なコメンテーターばかりが雁首を並べはじめている。



粛清というようなドラスティックな言葉を適用すべきかどうかは別として、降板したことに変わりはないコメンテーターの中には先のトークで川崎の事件報道の際、被害中学生をさん付けで呼ぶことの無責任に言及したテリー伊藤や、バリバリの右寄り発言で知られる勝谷誠彦(本人は降ろされたのではないと言っているが)も含まれるが、このような右的人間も降板させられるというのは一見分かりにくいようだが、分かりにくくはない。



それはそのようなコメンテーターの発言がその反動として左的な論調を引き出してしまうということにおいて人畜無害を指向する今日的テレビにおいては居ない方がよろしいということである。



その消された象徴的存在がテレビ朝日の「報道ステーション」でコメンテーターをやっていた元経済産業省官僚の古賀茂明だが、その降板騒ぎのあった数日後に古賀と親しい Hに電話を入れた。

彼は降板騒ぎのあった日から数日は古賀といっしょだったらしい。



Hは電話の向こうで情けないと言っていた。



彼が情けないと感じているのは江川紹子やニュースウイーク編集長の竹田圭吾や有田芳生などひごろ安倍政権と距離をとっている人間もこのたびの古賀の言動に異を唱えていることらしい。



その異を唱える根拠はふたつある。



古賀がテレビの生放送内でテレビ朝日の早河会長が菅義偉官房長官や官邸の意向に沿って自分が降ろされたと発言したことに確たる裏付けがなく、そういった軽率な行動はかえって敵に塩を送ることになる。



私憤を公器をつかって晴らすべきではない。



の二点である。



確かにあそこまでカミングアウトするのであれば、アナウンサーの古館の横やりに途中で発言を控えるのではなく、生放送なのだからそのまま確たる証拠を提示するという覚悟と用意周到さが必要だが、それがなかったことは”弱かった”と言わざるを得ない。



だがこの古賀の発言を”私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。

なぜなら私はあれは公憤に見えたからである。



かりにひとりの表現者(コメンテーター)が公器の中で歯に衣着せぬ発言をし、それが現政権の怒りを買い(かつて安倍とメシを食った早河)のトップダウンで彼が降板させられたとするなら、それは表現の自由という自由主義社会の根幹を揺るがす出来事であり、かりにその矢面に彼が立ったことでそれを江川らが私憤と片付けることは自らの首を絞めることになるからである。



ということはそれが私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要があるということだ。





     

 

2015/03/19(Thu)

敵対女性トライアングルには囲われたくない。(Catwalkより)

ドイツのメルケル首相の訪日に続いてミシェル夫人が来日した。



これは偶然なのだろうか。

事前に両者に何らかの通底があったのかどうかは不明だが、この二人にはある問題に関する共通の関心事がある。



先日のトークでも触れたようにメルケル首相は会見の場をわざわざかねてより従軍慰安婦問題に積極的に取り組んできた朝日新聞社に設定し、暗に従軍慰安婦問題に関心のあることを示した。



そしてドイツが戦後自からの非を認めたことを引き合いに日本(というより村山談話や河野談話をうやむやにしょうとする安倍政権)に加害者側としての意識が低いということを遠回しに非難している(政権に気兼ねしてか、この一件を日本のメディアはほとんど報道しなかった)。





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メルケル首相に続いて昨日来日したミッシェル夫人は日本嫌いとの風評がある。



安倍の米国訪問時にも出てこなかったし、オバマ来日時にも同伴しなかった。

また同盟国の日本を差し置いてちょうど1年前の3月20日、二人の娘や母親を引き連れて中国を訪問し大歓迎を受けている。

こういったことから日本嫌いという風評が立ったのだろう。



だが私はミッシェル夫人は日本嫌いだとは思わない。

同じ有色人種としてむしろシンパシーを抱いているはずだ。

ミッシェル夫人は日本が嫌いなのではなく、安倍が嫌いなのである。



メルケル首相同様、彼女にとって女性の問題には当然敏感であり、安倍がうやむやにしょうとしている従軍慰安婦問題は見過ごせない”女性の人権蹂躙問題”なのである。



私はこの従軍慰安婦問題に関しては、軍が関与していたか、していなかったかというそんなことは枝葉末節な問題でありどうでもいいと思っている。

植民地の女性を日本軍人が慰安婦として徴用したこと。

それが問題なのであり、軍がどうした民間がこうした、などはどうでもよいことだ。





安倍はもともとこの従軍慰安婦問題に関しては首相になる前からこの問題を打ち消そうと奔走している。



私は当時この番組にかかわった内部の人間を知っているが、2001年の1月30日にNHK教育テレビで放映された「女性国際戦犯法廷」を題材にしたETV特集「問われる戦時性暴力」の放送前日の29日、(当時)松尾武・放送総局長と、国会対策担当の野島直樹・担当局長が議員会館に呼びつけられている。

そこには自民党幹事長代理の安倍と今は自殺した経産相の中川昭一が居て、彼らは脅しに近いイチャモンをつけ、番組の一部を改変させ、通常44分枠の放映を40分に短縮させている。



この事実を記事にした朝日新聞は以降、従軍慰安婦問題で安倍と宿命の対立。



この安倍の怨念は実に15年もじくじくと淫火を灯し、独裁者となった今、読売と結託し、誤報問題をきっかけに朝日に追い落としをかけたことはご承知の通り。





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ただこれは日本人同士のコップの中の嵐であり、海外ではこの従軍慰安婦問題が象徴する安倍は、女性の人権を無視する先進国唯一のリーダーだとレッテルを貼られていることを(日本のメデイアが報じないため)案外日本人は気がついていない。



またこのことも井の中の蛙である日本人はとんと気づいていないが、この問題を軸に日本(安倍)は先進国の女性リーダートライアングル、メルケル首相、ミッシェル夫人、そして朴 槿惠に包囲されているのである。



このすぐれて女性の人権問題である従軍慰安婦問題を棚上げしょうとする安倍の新たなキャッチフレーズが”女性が輝く社会”というのは口先三寸男の面目躍如であり、おそらく女性リーダートライアングルはこのことをしてさらに安倍を最低男と思っているのではないか。



つまり私たちは女に嫌われる男を宰相としていただいているということだ。

これは見過ごせないことである。

私は戦後70年幾多の宰相を見てきているが写真家の観点から各時代の宰相にはそれぞれに男の度量と色気というものが感じられた。

だが安倍にはこれがない。

私の安倍嫌いの一因はここにもある。





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ちなみに今回ミッシェル夫人来日直前、オバマの側近中の側近であるらしいブリンケン国務副長官という閣僚が慰安婦問題にかかわる中国、韓国、経由で来日した。

そして従軍慰安婦問題追及の急先鋒である民主党の辻元清美代議士(これまた女性)や専門の学識経験者と面会し辻本と政権の間の国会質問の議事録まで取り寄せて慰安婦問題についてヒアリングしている。



当然これは従軍慰安婦問題に関する新たな情報として来日するミッシェル夫人へレクチャーされるということだろう。



ミッシェル夫人は表面はまあ京都などに行ってお茶会などをするのであろうが、来日の内実を考えるとこれはお茶を濁すという言葉がぴったりのような気がする。




     

 

2015/02/26(Thu)

戦後ニッポンの責任放棄な大人丸出し、めでたく現在進行形。(Cat Walkより)

先日のことだが、私の四国の知り合いが開いている焼き肉料理店で食事会があった。



そのおり30代のNHKの女性ディレクターが私のとなりに座ったのだが、食事半ばで社の方針の変化に不満を述べはじめた。



幼児や年少者のからむ事件に触れる記事を書くおり、社内では管理職が最近名前のあとに君とかちゃんとか付けるのをやめ「さん」づけにしたいという方針を示しはじめたというのである。



「幼稚園児や小学校低年齢の子をさん付けにするのはヘンと思いません?」



もちろん私はそれはヘンだと答えた。



というよりそれに関連して私が思い出したのはゆとり教育のことである。



ゆとり教育の真骨頂はあの運動会などでかけっこがあっても勝ち負けを決めないという人間の本能を無視した”異様”な取り決めがすぐに思い出される。



つまりこの取り決めは差別を無くしてみな平等にという”理念”が過剰に働いた結果、ヒト個人に備わった個性や本能をネグレクトしてしまう、という教育が”反教育”になってしまったという笑うに笑えない”バカ教育”であるわけだが、かりにそれを日教組が主導したとするなら戦後左翼というもののひ弱さ極まれる話ではある。



年少者を君やちゃん付けではなく、さん付けで呼びましょう、というこのマスコミの大人の意識はどこかこれと似通った臭いがある。



君、とかちゃん、とか上から目線ではなく、同じ”高さ”の目線で子供と接しましょうというヘンな意識がその言葉に結びついたのであろうが、畢竟(ひっきょう)大人と児童では背の高さが何十センチも違うわけであり、同じ目線にはなり得ないし、同じ目線でというのは運動会に勝ち負けをつけない、と同じく気持ちの悪いまやかしである。



というより大人は子供の何倍も人生経験を積んでいるのだから上から目線でなくてはならない。

だからこれまで日本の歴史では子供を君やちゃん付けで呼んで来たのだ。

そして大人の自分より人生の格下として子供を位置づけることは、そこに大人としての自覚と責任も生じるわけだ。



早く言えば、さん付けで児童を呼ぶのは大人の責任放棄に他ならない。





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さて、この一週間、川崎で起こった中学生一年、上村遼太君(13)リンチ殺害(これはあきらかにイスラム国の処刑の模倣である)の報道がかまびすしいが、各メデァイの報道を見るとさん付けと君付けが相半ばしている。



安倍の茶坊主、籾井が会長になって以降ここのところNHKは日和見路線に変更しているが、このさん付けの代表格が国営放送のNHKであり、NHKではすべて遼太君をさん付けで呼んでいて気持ちが悪い。



つぶさに検証する暇人ではないので私が見た範囲内だが、テレビ朝日では君、日本テレビの朝の「スッキリ」という番組ではみな申し合わせたようにさん付け。



何かと一家言ありそうなテリー伊藤というタレントも大人の責任を放棄してさん付け。

朝日新聞の紙の方では最初は君と呼んでいたと思うが、今日の夕刊とデジタルと見るととうとうさん付けで呼ぶようになっている。



他のメデイアは乗組員各自で検証していただく。



私はこの言葉の問題、就中名前の呼び方というのは大人が自分の本分を守り子供が自分を子供として自覚する上において非常に大切なことだと思っている。



というより言葉は身体であり人間や社会の行動基準を作るということから言えば、おめえら勝手に君をさん付けにして社会の規範をみ出すんじゃねぇ!と船長は遼太君を殺した野郎より遼太君を遼太さんにしてしまって社会の規範を乱す大人の側に怒り心頭なのである。



というよりコイツらのような責任放棄世代が陰惨な事件を生み出す青少年を生み出していると言えなくもないのである。



私はこの夏から朝日新聞で十回のインタビューを受けることになっているが、その担当の編集委員にさっそくこの問題を突っ込んでみようと思っている。



この一件は小さなことで誰も気づいていないが、あのゆとり教育を生み出して無気力な青少年を大量生産した戦後ニッポンのアホな大人丸出しの極めて重要な問題なのである。


     

 

2015/02/10(Tue)

目をつぶったころ、忘れたころがもっともアブナイ、イスラム唱国問題。(Catwalkより)


最近よく思うのはこれは日本人に限ったことではなかろうが、このところますます人間個人が主体性を持って情報の取捨をするのではなく、加速度のついたメディアの情報の興滅取捨に金魚の糞状態になった脳がだらだらと付いていっているというアブナイ時代のことである。



つい数日前まで大騒ぎしていたイスラム問題は、あのくだらない小学生殺人という猟奇の話題に取って代わられ、熱しただけ冷めやすい日本人の真骨頂を見せている昨今ではある。



というよりこのイスラム周辺の問題に関しては事が冷めた時に何が起きているか、何が起きようとしているかを見極めるしぶとい感性が必要だろう。



復習してみるに私は1/27のCatwalkトーク「桃太郎とアラジンの巨人はどちらが強いか。」の中において次のようなことを述べている。





あの200億に日本人はリアリティを感じていないが、この巨人はジューイッシュや華僑と同じくらい交渉術に長けていることを忘れてはならない。



200億は何も安倍首相のイスラム国対策金に合わせた非現実的な要求ではなく、彼らなりの本気(アラジンの魔法)であり詐術だと考えるべきである。

大男総身に知恵が回りかね、ではなくこの巨人結構知恵者なのである。



日本人はそこのところの彼我の感覚の異相を見誤っている。



その金額に当然リアリティを感じないとともに身代金を払うことはアメリカをはじめ有志連合国の国是にも反するわけだから日本は応じない。



イスラム国はそのことは折り込み済みだろう。



だから彼らはとつぜんあっけないほどすみやかにその200億という要求を下げて人質交換に場面を転換したわけだ。



だが彼らイスラム国は依然200億は彼らのリアリティでありそれを温存していることには変わりはない。



彼らがいったん提示した金の問題を交渉の俎上から下ろしたのはつまり国際通念上、公言した金は下りないからである。



今日その熾烈な経験によって金は隠密裏に行き来するものであることを世界の誰よりも心得ているのは彼らイスラム国なのである。



だから彼らはいったん金銭要求を引き下げたのだ。

後藤さんのメッセージの中で「あなたたちはお金を払う必要はない」という文言をわざわざ盛り込んだのは日本の苦悩に配慮して日本が金を払いやすい土壌を耕したということである。



つまり彼らの目算はおそらく人質交換+金だと睨む。



その金銭交渉の際、彼が最初に出して即座にひっこめた魔法のランプの巨人、200億は最初のジャブとして効いて来る。



ポーカーゲームのようにこのブラフ(こけおどし)はなぜかいつの間にか金銭交渉の際の基準になっており、ヨルダンに派遣された中山外相副大臣は「それでは2億円ではどうか」(本当はこの2億でも大きいのだが)とは言い出せないような空気が醸成されてしまっているのである。



鬼の征伐のために派遣された桃太郎、中山外相副大臣が果たしてこの肉食の巨人の詐術に立ち向かうことが出来るか、あの若さとなんとなく草食系の匂う人相ではなかなか難しいというのが船長の観測である。











そしてこのトークの内容を裏打ちするテレビインタビューが先日あった。



私も小保方問題のおりにインタビューを受けたTBSの報道特集である。

ここのところNHKを筆頭にテレビの御用化は甚だしいが唯一がんばっているのはニュースステーションとこの報道特集くらいのもので、先日の番組ではジャーナリストの常岡浩介とともにイスラム唱国 と唯一パイプを持つイスラム法学者の中田考をインタビューしている。



このインタビューはあまり話題になっていないようだが、これまでの一連のイスラム唱国報道の中では非常に重要な位置を占め、今回政府が後藤健二の人質問題でどのように動いていたか(いやまったく放置して動かなかったか)がありありと透けて見えて来るのである。





私が先のトークで指摘したようにイスラム唱国がいったん金の要求を引き下げたのはアンダーテーブルに交渉の場を移すためだったこと。

そして日本政府に200億を請求し、しかも日本政府はそれを無視し続けたこと。



またイスラム唱国のカリフであるバグダディと直接話を出来る重要ポストの人間に中田考がコンタクトできるにも関わらず、もっとも後藤健二救出の有効な手段であった中田ルートを無視し続けたことが明らかになっている。



また報道特集のインタビュアーの(私のインタビュアーも彼だった)日下部正樹はこの中田考のインタビューであきらかになったネタを持った上で外務大臣の岸田文雄に質問をぶつけているが、その折の岸田のうろたえぶりと支離滅裂な逃げ口上も見ものである。



つまり内心そうではないかと勘ぐっていた「後藤健二救出に政府は本腰ではなく、一連の対応は演技でありポースである」という忌まわしい予感がどうやら事実となりつつあるということである。



最近わかったところでは、驚くべきことに政府はイスラム唱国との交渉を中田常岡ルートではなくイスラム唱国とのパイプのまたったくない民間のCTSS Japan株式会社という危機管理会社に交渉を丸投げしているということである。



http://www.ctssjapan.com



そしてこのCTSS Japan株式会社、プレハブ会社も兼業しているらしいからもうわけがわからない。



‪http://bit.ly/1vzzAs2











そのように“そんなバカな”情報ばかり集まってくるイスラム唱国事件以降、日本のマスコミが自分の国の重大問題であるにも関わらずなし崩し的に次の話題にとりかかろうとしている最中、アメリカのニューヨークタイムス(私も四国沖でアメリカ潜水艦とえひめ丸の衝突事件のおりに長いインタビューを受けている)にやっと今回の一連のイスラム唱国問題と政府の対応が何であったかというきわめてシニカル(冷笑的)なカリカチュア(風刺画)が掲載(2月8日付)された。

150210.png

画ではイスラム国をニンジンに馬車に乗った安倍首相が「constitutional revision」の標語のもと憲法改正に向かって走っている。




「constitutional revision」とは「憲法改正」のこと。「テロリストの脅威」で国民を煽り、憲法改正という政治目的を進める手法を、外国は見抜いている。(山崎雅弘氏による情報)





つまりこの風刺画は政府は後藤健二の事件を利用し、危機感をあおって自衛隊の海外派遣はおろか憲法改正のスプリングボードにしょうとしていると語っているわけだ。



その“予感”に関しては2月2日このCatwalkトーク「早くも後藤さんの死に浸って居る場合ではないいくつかの憂うべき兆候。」の中においていち早く警鐘を鳴らしているが、そのトークから1週間後に海外メディアは今回の事件の本質を暴いていることになる。





以下2月2日トークの抜粋。



今後藤さんの死という負のイコンは弥次郎兵衛の均衡状態に置かれている。



私たちが今心して気をつけなければならないことはナチスがそのプロパガンダ活動の中で負のイコンとしてユダヤ人を利用し、また近くは911、つまりツインタワーという負のイコンを時のブッシュ政権が利用し不法にイラクに攻め入り、ISというモンスターを作り上げたように、えてして時代のイコンというものは為政者によって自分の都合のいいように利用されてしまう危険性があるということだ。



そしてその兆候はもうすでに出ているように思える。



今回、後藤さんの殺害関連報道は安倍首相の囲み会見と菅義偉の記者会見のみを見ているが、私は非常に奇異なものを感じた。



これは会見というより一方通行の「声明」あるいは「檄(げき)」または「御触(おふれ)」に近いものであり、そこに国民(記者)との対話は完全に封印されているからだ。



人質問題は後藤さんの死によって収束したにも関わらずある。



いつもは前ふりのあと記者とのやりとりをする官房長官の菅すら一連の声明を出した直後、記者席の方に一瞥もくれず足早に会見場から出て行く。



不思議である。



この案件は一国の国民が殺されたのであり、記者(国民)との問答があってしかるべき重大事項であり、政府の発言が人命にかかわる局面でないにも関わらず、一切の質問を許さない。



このことは何を意味するかと言うと後藤さんの死という負のイコンは扱い方によっては自分に火の粉が降りかかり、逆に扱い方いかんによっては利用価値の高い持ち駒となる可能性があるからだ。

この負のイコンは今、弥次郎兵衛が右に振れるか左に振れるかという微妙な緊張状態にある。












さてここで問題は政府が後藤健二救出を何の力もないプレハブ会社に丸投げして放置していた。
しかし表面では管官房長官や中山外相副大臣が官邸内やヨルダンでいかにも真剣そうに走り回っていた。今となっては妙に演技っぽい。



そういう意味ではイスラム唱国問題はマスメディアが潮を引くようにこの問題から撤退して行こうとする今以降がいちばん重要な局面を迎えつつあるということ。

そしてまたさらには自衛隊の海外派遣や憲法改正のみならず、これに連係して日本に軍事産業を育て、アベノミクス失敗の立て直しの構想も何処やら何やら匂うのである。



     

 

2015/02/02(Mon)

早くも後藤さんの死の衝撃に浸っている場合ではないいくつかの兆候。(Cat Walkより転載)

 


後藤さん個人の命が無辜の民の命より重いのではない。


後藤さん殺害の報のあった31日は新聞テレビなどの無い山中にいたので、断片的にしか今回の事態に対する報道を見ていないが、今回の一連の出来事に関し、まず前提として確認しておかなくてはならないことがある。


それは中東の紛争国で無数の人間が殺されている状況の中で一人の人間の命に大騒ぎするのは不条理だという意見が聞かれることである。


この数値的な発想は今回の案件にはなじまない。


後藤さんの命は緊張関係にある国際政治力学の中において象徴的存在となってしまったから騒がれるのであり、騒がれることが即後藤さんという一個の命が無辜の民の命より重いということではない。


そしてその命は延命されることによってさらに誇大化したわけだ。


そしてさらには沸騰点において殺害されたことによって扱いの難しい負のイコンとなったと言える。


 


今後藤さんの死という負のイコンは弥次郎兵衛の均衡状態に置かれている。


私たちが今心して気をつけなければならないことはナチスがそのプロパガンダ活動の中で負のイコンとしてユダヤ人を利用し、また近くは911、つまりツインタワーという負のイコンを時のブッシュ政権が利用し不法にイラクに攻め入り、ISというモンスターを作り上げたように、えてして時代のイコンというものは為政者によって自分の都合のいいように利用されてしまう危険性があるということだ。


そしてその兆候はもうすでに出ているように思える。


今回、後藤さんの殺害関連報道は安倍首相の囲み会見と菅義偉の記者会見のみを見ているが、私は非常に奇異なものを感じた。


これは会見というより一方通行の「声明」あるいは「檄(げき)」または「御触(おふれ)」に近いものであり、そこに国民(記者)との対話は完全に封印されているからだ。


人質問題は後藤さんの死によって収束したにも関わらずある。


いつもは前ふりのあと記者とのやりとりをする官房長官の菅すら一連の声明を出した直後、記者席の方に一瞥もくれず足早に会見場から出て行く。


不思議である。


この案件は一国の国民が殺されたのであり、記者(国民)との問答があってしかるべき重大事項であり、政府の発言が人命にかかわる局面でないにも関わらず、一切の質問を許さない。


このことは何を意味するかと言うと後藤さんの死という負のイコンは扱い方によっては自分に火の粉が降りかかり、逆に扱い方いかんによっては利用価値の高い持ち駒となる可能性があるからだ。


この負のイコンは今、弥次郎兵衛が右に振れるか左に振れるかという微妙な緊張状態にある。


 


一国の首相が聞く耳を持たないということ。


安倍首相の会見はそのことをよく表していた。


安倍首相のもの言いはいつも落ち着きがないが、この早朝会見はあきらかにいつもにも増して落ち着きがなく、目が泳ぎ、後半の部分で話が途切れ、手元のアンチョコに目を落とし、ふたたび話はじめる際には過呼吸気味に呼吸が乱れ、声も少し震えている。


https://www.youtube.com/watch?v=SmjelQNqlwM


安倍首相の会見(注意深く見る必要がある)


プロの音声分析にかけるまでもなく、安倍首相がここまでの動揺を見せているのは単純にお坊ちゃん育ちで自分の名前が名指しされた残酷な殺戮映像のショックがあとを引いているか、あるいは今回の殺戮が自らの中東での一連の挙動が引き起こしたとする責任問題に発展する可能性のある案件であることを過度に警戒していることを表すかどちらかだろう。


いやその両方と言った方が順等かも知れない。


後者の観測が的を得ていると言える場面は会見の立ち去り際に一瞬垣間見える。


一人の記者が立ち去り際に発した「一連の対応に問題はあったとお考えでしょうか」という質問に安倍は一度は記者の方を見るが振り切るように踵を返して立ち去る。


この問答無用キャラは今にはじまったことではない。


先の衆議院選挙時には開票速報時に民放のキャスターを勤めた池上彰さんの質問が厳しさを増したおり、とつぜん首相はイヤホンを外し、一方的に持論をまくしたてた。


前代未聞のことである。


また沖縄新知事の翁長雄志(おながたけし)さんが上京した際、政府は(相手が辺野古埋め立てに反対して当選した知事ということで)異例の対話拒否をしている。


そして今回の緊急問答無用会見である。


早くも負のイコンは 利用されはじめている。


元官僚の評論家、古賀茂明さんは報道ステーションで以下のような発言をした。


今度の人質事件では、いろいろな報道がされていました。でも、必ず最後の方は「テロは許しがたい行為だ」「いまは一致団結して、安倍さんの戦いを支持すべきだ」というところに帰結してしまうんですね。そうなると、あらゆる議論が封じ込まれてしまう。


今は戦前のように治安維持法もないし、特高警察もいませんが、安倍政権のテロとの戦いに異論を挟むのは非国民だ、みたいな雰囲気が醸成されつつある。


この発言は後藤さんの死という負のイコンが弥次郎兵衛のごとく右に振れるか左に振れるかという均衡状態にあるという私の観測と同一線上にあると言え、もっと私たちが警戒しなればならないのは彼の死が政府のプロパガンダとして利用されることに他ならない。


その弥次郎兵衛的均衡関係を表すように今朝の朝刊各紙もイコンの綱引きをしている。


(画像・クリックで拡大)



絶対に許さぬ、という首相の言葉に同調強調(読売新聞)。



テロ許さない、と首相の言葉を客観報道(朝日新聞)。



次ページで政府批判とも受け取れる見出し(朝日新聞)



安倍首相のメッセージを見出しに採用せず。メモを見ている時のうつむきの顔写真を使う(毎日新聞)。



政府声明に加担せず、負の連鎖を強調(東京新聞)。



となりの桜井よしこのコメントとの合わせ技で”政府公報紙”となる(産経新聞)。


つまり今日の新聞各紙の見出しや扱いは今回の事象が左右どちらにも振れやすいイコンであることを如実に表しているわけだが、それがもっとも危険領域に振れた場合がどうなるかという結果がご丁寧にも「自らの力で自らを守る」という櫻井よしこさんのエッセイを並列して載せた極右新聞である産経にもっともよく現れていると言える。


つまり後藤さんの死の衝撃もつかの間、この負のイコンは敷衍して憲法改正という大団円にまで発展(利用される)可能性を秘めているという新たな視点を私たちは持つ必要があるということである。



     

 

2015/01/29(Thu)

ジャーナリストの命の値段について。(Catwalkより)

昨日のトーク「祈る」はこのCatwalkトークでときたま皆さんの注意を喚起するためにかけるブラフと受け取っていただいて結構であり、加えて感情論とも受け取られることを予測した言葉でもあり、そしてそういった文脈での少なからぬ同調の投稿があるが、今回は反論投稿を取り上げる。





                                    ◉





M.S.

タイトル:人質はムダ、と分らせる



国の借金1000兆円をどう減らす、という時にこの1人に使う金などあるはずがない、というかつまり緊急なお金の使い道:東北復興、社会福祉、今日にも壊れそうな橋を直す、認知症対策、原発関連、まあいろいろありますが、それらに比べて確実にプライオリティは低い。



これらの早急な対策はより多くの人命を救うものでしょう。

そこを削ってなぜ危険を承知で行った商売男を助けるか?



赤ペンキで、キケン!入るな!釣り禁止!と書かれた柵、塀を乗り越えて大物を釣ろうとして足を滑らせた釣り人を税金で助けて欲しくない。



このバランス感覚なしに、ただ無事で帰って来て欲しいというのは、まだウブな青少年や、もう天国間近で後の事はあまり、それほど、または、なんも気にしない高齢者とか、金銭感覚ゼロの博愛主義者とか、あとはとにかく税金がどう使われようが自分の生活には全く金銭的不安のない方々、でしょうか?



私も、無償なら、是非とも無事で帰って欲しいと思います。

人命は大切です。

ですが、それにとてつもない金銭的負担があるなら、可哀相だけど、それより多くの日本国民のために諦めて欲しい、と思うところです。



(後略)






                                   ◉







実は今回イスラム国が日本人人質の期限付き殺害を発表した直後(この項はクロースドサイトであるCatwalkのみで掲載)という書き出しで後藤さんの海外取材で一緒に仕事をされたという会員からの投稿を受け取っている。



この投稿は基本的には掲載しないという前提なので投稿者のアイデンティティに抵触しない部分抜粋になるが投稿の後藤評は最悪と言ってよかった。





(略・同上)






言葉を扱う者として、投稿のその言葉は虚偽的なものではないと私は個人的に判断し、ありがちなことだと感じるとともに、そういった人物評とともに今回の事件の経緯をフォローすることになるわけだが、それでもなおかつ私が一人のジャーナリストの救出を「祈る」のは、その祈りの中では後藤健二の固有名詞は消えているのだ。



あくまでひとりのジャーナリストの救出ということである。





さて私は先のトークの中で海外における日本人のカーストに触れているがフリーのジャーナリストはその最下位にあることを述べた。



そういう意味では投稿のM.S.さんの言葉「なぜ危険を承知で行った商売男を助けるか?赤ペンキで、キケン!入るな!釣り禁止!と書かれた柵、塀を乗り越えて大物を釣ろうとして足を滑らせた釣り人を税金で助けて欲しくない」「東北復興、社会福祉、今日にも壊れそうな橋を直す、認知症対策、原発関連、まあいろいろありますが、それらに比べて確実にプライオリティは低い」には海外における上位カースト者同様のフリーのジャーナリストに対する差別感情が見られる。





昔こういう難題を持ち出した人がいた。



農民は日々額に汗し畑を耕し、作物をつくり人々に提供している。

だがもの書きは机上で無形な言葉を編んでいるだけではないか。

私はそれに対し、作家も農民も同じこと、作家もまた日々額に汗し畑を耕し、言葉のポテトを収穫し、人々に提供しているのだ。と述べている。





いったいに無形のものを軽んじるという傾向はどこの世界もにあり、とくに危険な国に行って取材をするジャーナリストの自己責任を問う声は多い。



確かにそのジャーナリストも人間であり玉石混交、いかさまもいるだろうし、信念を持つ者もいるだろう。



そしてこの論考の俎上にはいかさま者を当然除外している。

その上において言うならジャーナリストの収穫するポテトとは事実と真実を実際の現場で見極め、広く報告することである。

そしてそれは人間が生きて行く上において必要な”食料”なのである。





このネット情報化社会である今の世の中は、その二次情報三次情報の多くは操作されたもの、あるいは根拠のない憶測から生まれたものとみなしてよいだろう。



今でなくともナチスの情報操作に踊らされたドイツ民族の所業とユダヤ人の末路というものを私たちは知っている。



そういう意味では情報化社会において人々が烏合の衆となりつつある今の世界の現状は危ういと私個人は感じている。



そんな状況の中においていかに事実を見極めるか、それを果たすには実際の現場に行き、一次情報に触れ、それを発信する方法はひとつの有効な手段であり、また必要不可欠なことである。



M.S.さんの意見は極端な例だが、同じような考えを持つ人がいればジャーナリストにはそういう役割があるということを知ってほしいのだ。



そして彼らも農民同様、額に汗し、時には自分の命を世界に曝し、知恵のポテトを耕し、それを売り、自からの生活費(けっして儲かる仕事ではない)としている。





私が先般香港のデモ騒乱に行って200点もの写真とコメントをこのCatwalkサイトで展開したのもまったく同じことだ。



あの現場に行って実際にこの肉眼で見たからこそ、百万の二次情報三次情報を越えたリアリティと事実を皆さんの前にお伝えすることが出来た。



そして今回の香港事象はたまたま他国事であり、日本における311の原発事故時の虚偽発表のように直接私たちの生活を左右するものではないが、おそらく今後この情報化社会において秘密保護法のもと事実を知らされぬがゆえに日本人が死線をさまようという局面もないとは決して言えない時代なのである。



私はM.S.さんの意見とは反対にひとりの(自からの命をかけ世界に真実と事実を知らせようとする)ジャーナリストの命に200億の金を払ってもいいと思っている。

そしてまたそのジャーナリストが似非(えせ)であったとしても、かりにそれが罪人であったとしても一人の人間の命を軽んじることは慎まなければならない。


     

 

2015/01/28(Wed)

祈る。



今帰宅したが、期限が近づいている。



(官房機密費からイスラム国の要求を満たす身代金が支払われるという真偽不確かな裏情報を得たが)どういう手段方法でもいい。



今は何とか後藤さんが生きて解放されることを祈るばかりである。



私たちはアメリカ人ではない。



国家の存立とメンツより、ひとりの人命を優先する。

     

 

2015/01/28(Wed)

アラジンの巨人と桃太郎。(Catwalkより)

そろそろこの暗澹たる人質問題に関するトークは終わりにし、もう少し明るい話題に切り替えたいのだが(積み残していたパリでのテロとデモに触れなければならない)、なかなか事態は収束しないようだ。



またこれは大変重要なことであり、日本人の国際感覚を喚起する意味で再三触れる必要があると思っているが、このトークでは安倍首相がイスラエルで人質問題に対するメッセージを発信した直後の20日の時点で「それはアカンやろう」いちと早くイスラエル国旗問題の深刻さに言及したが、それから2日後の22日、東京大学名誉教授の板垣雄三さんは岩上安身さんのインタビューにこたえ次のようなコメントを吐いている。



「ヨーロッパでイスラエルは孤立している。

欧米とイスラエルにすれば、日本がしゃしゃり出てきたのはもっけの幸いでしょう。

日章旗とイスラエルの旗が並んだその前で記者会見を行なうという、最悪の状況で『テロとの戦い』を宣言してしまった。

これははめられましたね。

安倍総理の決定的な政治的ミスです。

一般のマスメディアは、イスラムは親日的だから、欧米の人質と違って、特別扱いしてくれるのではないか、などと言っておりますが、大間違いです」



また、今日の朝の民放に出た同志社大学の国際政治学者内藤正典さんも安倍首相の大きな失点はイスラエル国旗の前で国際的なメッセージを発したことだと、はっきり述べている。



すでに公の場でこの国旗問題が言及されるに到り、YouTubeで数多くあったこの両国国旗並立掲揚の動画のほとんどは削除されいるが(海外メディアはイスラエル国旗が映らないよう配慮していた)確信犯でもない限り、おそらく政治のプロであるはずの安倍首相および側近さえうっかりと気がつかなかったこの国旗問題は、おそらく日本人一般市民も同様にその絵の深刻さには気がつかなかったはずだ。



つまりこの一件はいかに日本人の国際感覚が脆弱で、また平和ボケを来しているかという格好の見本のようなものであり、会員の中でパレスティナ取材の経験の長い佐藤知明君からも「さすがに、気づかれていましたね。ワタシは唖然としました。」との即座に投稿があったように、イスラム国のみならず中東のアラブ圏中近東のイスラム圏のほとんどの国においてこのイスラエル国旗というのは敵国のシンボルのようなものなのである。



これはサッカー会場で敵の応援席に坐って味方のサッカーチームを応援している(そんなヤツはいないが)以上のバカな図であり、演壇の端を見ると内閣官房副長官で安倍の宣伝相を自認する世 耕弘成さん(安倍首相より彼がその場のイスラエル側の演出に気がつくべきだった)が安穏と坐っており、ふたりが居並ぶとさすがにバカの図×2となり滑稽が倍加する。



その国旗問題で間抜けぶりを示した政府は今度はイスラム国との交渉術の中に引き込まれているわけだが、私の旅の経験では(旅はその半分が”敵”との交渉に費やされると言っても過言ではない)かりに一つの品物を買う交渉に入った場合、イスラム圏やアラブ圏というのは独特の世界観を持っていることを見落とすと狐につままれる思いをすることになる。



彼らとの交渉をする上において彼らの世界観を知るにはアラジンの魔法のランプはひとつのヒントになるだろう。

ご承知のようにそのてのひら大の魔法のランプから何が出てくるかというと雲を突く巨人である。



日本の昔話において、かぐや姫は竹と等身大、桃太郎は桃と等身大で生まれて来るのであり、かりにイスラム圏やアラブ圏で物事の交渉をする場合、こちらは等身大、ところが相手も等身大と思っていたところが突然空想の巨人になってしまうことがしばしばである。





つまりイスラム国が人質解放に200億円なにがしを要求してきたアレである。



あの200億に日本人はリアリティを感じていないが、この巨人はジューイッシュや華僑と同じくらい交渉術に長けていることを忘れてはならない。



200億は何も安倍首相のイスラム国対策金に合わせた非現実的な要求ではなく、彼らなりの本気(アラジンの魔法)であり詐術だと考えるべきである。

大男総身に知恵が回りかね、ではなくこの巨人結構知恵者なのである。



日本人はそこのところの彼我の感覚の異相を見誤っている。



その金額に当然リアリティを感じないとともに身代金を払うことはアメリカをはじめ有志連合国の国是にも反するわけだから日本は応じない。



イスラム国はそのことは折り込み済みだろう。



だから彼らはとつぜんあっけないほどすみやかにその200億という要求を下げて人質交換に場面を転換したわけだ。



だが彼らイスラム国は依然200億は彼らのリアリティでありそれを温存していることには変わりはない。



彼らがいったん提示した金の問題を交渉の俎上から下ろしたのはつまり国際通念上、公言した金は下りないからである。



今日その熾烈な経験によって金は隠密裏に行き来するものであることを世界の誰よりも心得ているのは彼らイスラム国なのである。



だから彼らはいったん金銭要求を引き下げたのだ。

後藤さんのメッセージの中で「あなたたちはお金を払う必要はない」という文言をわざわざ盛り込んだのは日本の苦悩に配慮して日本が金を払いやすい土壌を耕したということである。



つまり彼らの目算はおそらく人質交換+金だと睨む。



その金銭交渉の際、彼が最初に出して即座にひっこめた魔法のランプの巨人、200億は最初のジャブとして効いて来る。



ポーカーゲームのようにこのブラフ(こけおどし)はなぜかいつの間にか金銭交渉の際の基準になっており、ヨルダンに派遣された中山外相副大臣は「それでは2億円ではどうか」(本当はこの2億でも大きいのだが)とは言い出せないような空気が醸成されてしまっているのである。



鬼の征伐のために派遣された草食系の桃太郎、中山外相副大臣が果たしてこの肉食の巨人の詐術に立ち向かうことが出来るか、いささか心配がないでもない。

     

 

2015/01/26(Mon)

生け贄(いけにえ)の論理。

これは長期にわたって特に第三世界における旅をすればよくわかることだが、海外における日本人にはカースト制度が存在すると私は思っている。

この海外における“日本人カースト”の頂点に立つのは大使館や領事館に勤める外交官である。
次のカーストは企業などに勤める海外駐在員。
次のカーストは旅行業者によって斡旋された日本市民としての身元の明らかな旅行者。
そして最下位のカーストは日本人でありながらどこの馬の骨とも知れない単独旅行者ということになる。

この単独旅行者はフリーのジャーナリストも入る。
海外においてこのフリーのジャーナリスト(後藤さんのように小さな通信社に属する者も含めて)のアイデンティティというものは大変不確定で、名の知れたメディアからの記者証でもないかぎり、外交官や企業の海外駐在員など上位カースト者からほぼ得体の知れない日本人と見なされる。

そういう意味では今回イスラム国の人質となった後藤健二さんと湯川遙菜さんは海外日本人カースト制度の最下位に属すると言えるだろう。








日本政府が早くからこの二人がイスラム国によって拘束されていることを知りながら、放置していたのは彼らが海外日本人カースト制度の最下位に属する“得体の知れない日本人”だからと言ってもよいだろう。

かりにこれが大手の企業の一社員となるとそれは日本人アイデンティティに抵触することになり、日本政府は慌てて動くはずだ。
かつて三井物産の若王子信行さんがフィリピン新人民軍に誘拐拘束されたおり、官民一体となって当時のドルレートに換算して22億円が支払われた救出劇、あるいはアルジェリアにおける日揮社員拘束(のち殺害)時の日本政府の敏速な動き記憶に新しい。


だが今回の場合、湯川遙菜さんに関しては一年前からイスラム国に拘束されていることがわかっており、後藤健二さんに関してはイスラム国は昨年の11月から人質と引き代えの身代金を要求していたが政府はこれを完全に放置。

ところが今回安倍首相の中東訪問での演説直後にイスラム国による二人の人質の殺害予告がYouTubeで全世界に発信されるや、イスラエル国旗の前で安倍首相はとつぜん“強い怒りを覚え”日本人の命の重みに言及しはじめる。

「このように人命を盾にとって脅迫することは許しがたいテロ行為であり、強い憤りを覚えます。ふたりの日本人に危害を加えないよう、そしてただちに解放するよう強く要求します。政府全体として人命尊重の観点から対応に万全を期すよう指示したところです。」

いままでの二人の日本人の命の放置は一体何だったかと疑わせるほど「許しがたい」「強い憤りを覚える」「解放するよう強く要求する」「人命尊重」「万全を期す」と最大の形容句を使って日本人の人命に関与している姿勢を示しているわけだ。

こういった人命の二重基準はとりもなおさず、今回の二人が海外日本人カースト制度の最下位に属する者だからである。



そしてさらに今回問題にすべきは、こういった人命の二重基準を越えた官邸(安倍首相)冷酷性である。

安倍首相はこの殺害映像が出た直後、アメリカの大統領オバマとキャメロンと電話会談をし、彼らからの哀悼のメッセージを受けると同時にあわせてテロとの闘いの確認を仕合っている。
とうぜんこの電話の実際の様子を私たちは知ることは出来ないが、そこには互いにある種の屈折した高揚感があったのではないかと想像する。
つまりアメリカもイギリスもイスラム国によって同様の方法によって国民を殺害されている。
そして今まさにこの東洋の国日本もまた“テロとの戦いの元”(実際には戦っていないのだが)同様の人的損失を被った。
それを報告し、また報告される、この電話のやりとり、あるいは“伝令”には同情を越えた“共感”の感情交換がなされたはずである。
つまりこの一瞬、彼ら(アメリカ・イギリス)同様“犠牲者”を出した日本は「有志連合の一員」として認証されたということである。

つまり、であるとするなら、湯川遙菜さんは海外日本人カースト制度の最下位に属する者というより、その連合に加入するために有志連合の先駆者(胴元)の前に差し出された“生け贄(いけにえ)”あるいは“貢ぎ物(みつぎもの)”ということになる。

それも自らの手を汚すことなく、他の人間(イスラム国)の手を汚すことよって差し出された生け贄である。

つまり彼(湯川遙菜)の死は犬死にではなく誰よりも日本政府に貢献したのだ。
どこの馬の骨とも知れぬ最下位カースト日本人は生け贄となったことによって国際政治力学の中においてその身体は一定の価値を生み出したのである。

その価値がいかほどのものか。
つまりこの“有志連合加入金”はひょっとするとイスラム国が彼の身体につけた200億をはるかに越えるはずである。







昭和45年。
あの赤軍派のハイジャック事件の時、福田赳夫は「人間の命は地球より重い」というを吐き、犯人の要求を飲み、人質を解放した。

人間存在の原理からするなら福田の言葉はすいぶんのどかな迷言だったと個人的には思う。

だが、あのなつかしい昭和の当時、日本人を西洋人に生け贄として差し出す平成時代の冷血と卑屈とは一線を画し、日本国首長たる者、日本国民を愛する、人の血の通った時代があったということでもある。










     

 

2015/01/21(Wed)

安倍首相の拙速の責任を問う。(CatWalkより転載)


これまでイスラム国によって処刑されたのはアメリカ人、イギリス人であり、彼らは処刑時に赤色の服を着せられている。


この服の色に関して、中東情勢に詳しい者の口からもそれが何を意味するものかというコメントが寄せられないのが不思議だが、私個人はこれは敵対するキリスト教を意味するのではないかと思っている。


一般的にはこの赤い服は人質に、キューバのグアンタナモ米軍基地に収容されたアフガニスタンやイラクの過激派と同じオレンジ色の囚人服を着せたとされるが、私はもうひとつの意味があるのではないかと思っている。


今回処刑執行者のメッセージには「十字軍」という言葉が出てくるが、かつての私は旅の中でエルサレムクロスのネックレスを見ている。


十字軍のシンボルとして使用されたそのエルサレムクロスは赤が基調となる。


エルサレムクロス



また十字軍の十字とはキリスト教の十字でもあり、また赤十字の十字でもある。


イスラム諸国ではこのもともとキリスト教の布教活動の一環として機能した赤十字社の赤い十字マークが十字軍を連想させるとして、白地に赤色の新月を識別マークとしており、すなわち彼らにとって「赤」とはキリスト教の認識色なのである。



イスラム国における赤十字の認識旗「赤新月」。



そのキリスト教、あるいは十字軍の認識色をこのたびアメリカ人、イギリス人に続き、彼(処刑者)が言うところの彼らの国から8000キロ離れた東洋の一国、日本の国民が着せられたということである。



歴史的に中東を搾取して来た西欧十字軍諸国に加え、中東に対する搾取とはいかなる関係もない歴史を持った日本と日本人が十字軍の仲間と見なされたのである。


これは深刻なことと言わざるをえない。


この深刻な事態を招いたのは日本国首相安倍晋三の拙速だと言える。


17日に韓国から帰国後、その日に行われた安倍首相のカイロでの演説を聴いた時、危ういものを感じていた。


それは即今回のような事態を想定したということではなく、日本が一線を越え、このグズグズの泥沼状態の中東情勢に足を踏み入れ、果たして大丈夫だろうか、と思ったのである。


かねてより平和憲法を持つ日本はなんらかの国際紛争の解決に関与するのに格好の国ではないかと言われていたが、それは平和ボケしたこの国固有の青臭い願望であり、現実というものはそんなに生易しいものではない。


だが今回安倍首相は”火中に栗を拾う”そのままに、イスラエル、パレスティナ問題のフィクサー役を気取るとともに、カイロで大々的に中東情勢に関与する演説をぶった。


その演説の様子を見て、たかだか国内選挙に再び勝った自信過剰と、もともと生まれ育ちからこの首相に色濃く備わる全能感とが妙に一体化した高揚感を感じた。


十字軍の仲間と見なされたこの日本で今後幾年にもわたって何が起きるか予断をゆるさない年月を日本国民は生きなければならない。


安倍首相の拙速の責任を問う。



12月1日にアップしたトーク「下手でもいい、自分らしい、その人の生き方の見える言葉や字(書)を書く人が早く出て来ないと日本は本当に危ない」が現実になったと言える。





なお、日本で報道されたカイロの安倍首相のスピーチと外務省が公式に訳した外国向けスピーチに大きな隔たりがあることにも着目したい。


「イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。」

http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me1/eg/page24_000392.html

"We are going to provide assistance for refugees and displaced persons from Iraq and Syria.

We are also going to support Turkey and Lebanon. All that, we shall do to help curb the threat ISIL poses. I will pledge assistance of a total of about 200 million U.S. dollars for those countries contending with ISIL, to help build their human capacities, infrastructure, and so on."

http://www.mofa.go.jp/me_a/me1/eg/page24e_000067.html



日本語のスピーチの方でも相当踏み込んでいるという印象はあるが、英語の方は、人道的支援、難民支援という要素と敢えて切り離し、直訳すれば


「ISILと戦う国々に、人的能力・インフラ支援のために2億ドルを供与する」


となっていれば、直接的にISと対峙するイラクやレバノンなどの国々にISと戦う兵力や施設を整えるためのお金を提供すると読むのが当然である。




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